Japanese War 1: 「応答願う」〜戦地から孫へ 1

 

 

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一九四三年二月一日、二十歳の川嶋青年はビール箱の上に立っていた。集まった町内の人たちを前に、「お国のために行って来ます」と叫んだ。「祝出征」と書かれたタスキを掛け、星をつけた野球帽のような軍帽を被り、何十回も練習した挨拶を披露した。人だかりが一斉に万歳を繰り返し、太鼓とラッパが鳴り響く。ビール箱を降りた青年はそのまま行軍を始め、堺筋を抜け、天王寺まで歩いてから電車に乗り込んだ。雪が降っていた。

 

「『お国のため』としか言いようがないんです。『行きたくない』なんて言われへん」。百七十八センチの細身の体を椅子に預けた川嶋さんは、振り返る。「日本男子に生まれたからには戦争に行くのは国民の義務やと。家庭やら家族やら守れと、先祖を守れ、国を守れ、天皇陛下を中心に動けと、いうようなことを叩き込まれたから、今の北朝鮮の(軍)行進と似たような感じや」。でも本音は違った。「『よし、国のためにはたらいたろか』と表面では言ってもね、やっぱり生きて帰りたいなあってね」。

 

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電車に乗ったとき、「もうこれで帰ってこれへん。親や兄弟の顔を見るのもお終いやな」と思った。先に入隊していた兄は復員したが、特攻隊に入れられた一歳違いの弟は四五年一月十四日、台湾沖で戦死した。弟が特攻隊員として飛ぶ前に、偶然久留米の士官学校で会う機会があった。「何しとんねや」「うん、死ぬ稽古や。せやから、親のこと頼むで」。最後の会話だった。弟は、今でいう大阪大工学部機械科の学生だった。死後、親元には「名誉の戦死」との紙切れ一枚が届いた。

 

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川嶋氏が満州にいたときの貯金通帳。今も通用するが、時価換算はされないという。

預金額は五円。

 

 

自身は大阪堺市の輜重兵第四連隊に入隊。間もなく満州に渡り、「牛馬以下」のしごきを受けた。「大学出のえらい人でも、教師でも、漁師のおっちゃんも、百姓のおっちゃんも、我々のように商売してる人も皆一緒ですわ。皆将棋の歩のように、上官の言いなりになる。勉強してた人でも考える暇がなくなる」。殴られてなんぼ。殴られる数だけ自分の成績が上がるとさえ思わないとやっていけなかった。訓練中に気が狂う人もいた。フィリピンでの戦闘に入っても、各自に一つずつ配られていた手榴弾を使って自爆する者もいた。「沖縄戦と同じで自爆用だった。捕虜になれない上、怪我や病気で気力を無くした者は手榴弾をお腹に抱えて自殺してたわ」。

 

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満州から、士官学校入学のため久留米へ。卒業後、四四年十月二十日に広島・宇品港でフィリピンに向かった。十三隻の船団だった。出発から約二週間後、乗っていた船が米軍潜水艦の攻撃で轟沈した。とっさに海に飛び込んだが、浮上した黒い潜水艦が機銃の雨を降らせてきた。鉄帽と拳銃は重くて捨てた。軍刀だけを背負って浮こうとした。日本軍の飛行機や残りの船は去った。味方の護衛艦だけが救助を続けたが、積みきれない。残された川嶋さんらに「許せよ、頑張れよ」と点滅信号を送って消えた。偶然、丸太棒が浮き上がってきた。「宝くじに当たったようなもんですわ」。ひたすら掴まった。耳から入る海水が、鼻や口へと自由に抜けていく。もう、それを防ぐ力も残っていなかった。

 

三十六時間。一日半の漂流後、駆逐艦が運よく発見し救い出した。三千人が乗っていた川嶋さんの船で、生き残ったのは二百五十名だった。船団十三隻のうち無事フィリピンについたのは五隻だった。今でもテレビに船や波が映ると、気分が悪くなる。

 

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フィリピンに着いたのは十一月七日。生き残った将兵で部隊を再編成し転戦を続けた。休養は一日だけだった。敵は米兵とフィリピン人ゲリラ。米兵には黒人兵が多かった。「やっぱり劣悪な戦場の第一線には白人より黒人を多く使ったんやろな」。間もなく、少尉に任官し小隊長になっていた。部隊の佐藤司令官が「敵が来たらなんぼでも殺してもええ。けども、民間人、特に女、子どもには絶対手を出したらいかん」と言っていた。だが、戦闘になると「とにかく怖い」。動くものは撃つ−。体がそう反応する。「間違って百姓を、我々が鉄砲で撃ち殺したかも分かりません。けども、少なくとも何十人も、何百人も殺したっちゅうことはありません」。そばにいた部下が機銃掃射にやられ、顔の下半分がもげる。敬礼をし、目を白黒させて何か報告しようとしたまま、息を引き取る。両足のすねから下が引きちぎれた兵士が戻ってくる・・・。戦死した戦友の体を犬か何かが掘り出し、食いちぎる。国のため、日本のためという考えは消し飛ぶ。ただ、自分の身を守りたい、死にたくない、怖い、という生への本能がむき出しになる。「皆、嫁さんの名前や『おかあちゃん』って呼んだりなあ。『何か食いたい』『助けて』なんて言いながら死んでいった。『国のため』なんていう人はおらんかった」。

 

ジャングルの中、敵が撃つ火薬の光で相手の顔が見える。がさがさと斜面を這い上がる。「突っ込め」の自らの合図で、敵の顔の下辺りを軍刀で突く。三歩進んでは突き、また三歩進んでは突き、こっちへさがってはまた突き。落ちてくる者はそのまま転がした。「もう思い出せん、怖すぎて・・・」。

 

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その瞬間だけは「餓鬼やな。鬼の方がよっぽど優しい」。川嶋さんは言葉を継ぐ。「あんた、もし船沈んだら、自分の子どもは助けるけど、ほかの人は見捨てるでしょう・・・、いよいよとなったら、自分の子どもを捨ててでも自分だけが上がろうとする。助かろうとする」。きれい事では済まない。それが、極限を知る者が経験した生の本能だという。

 

「今の若者で、アメリカと日本が戦争してたこと知らん人もおるらしいですな。日本は昔から平和やと思っておる人たちがお父さん、お母さんになっているから非常に怖い」とつぶやく。

 

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捕虜収容所時代に綴り続けた日記「思ひつき」。

米兵に頼み込みメリケン粉の袋やタイプライターで打ち損じた不要な紙をもらって作った。

計四十八頁。

各地から来た戦友と自慢し合いながら、唾を飲み込むことしかできなかった郷土料理の献立百四十品目を、

調理法もまじえて書き込んでいる。

「味を想像することが、唯一の楽しみだった」。  

 

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あの戦争から十九年後、ようやく遺骨収集のために現地に向かった。線香をあげると、山の方から雄叫びが聞こえ、風向きとは別方向に煙が流れていった。山中のかつての陣地の方角に流れていった。「嘘のような出来事でしたな」。生き残った川嶋さんらに「自分だけ楽して生きて帰って」と恨み言をぶつけてきた戦友の遺族らが「ここ(現場)へ来て初めて納得しました」「死んだ者も生きた者も皆同じように苦しんだのですね」と言った。

 

復員して間もない川嶋さんの体を見た医者は「あなたの内臓は六十歳や」と驚愕した。注射を打つと半数の歯がぼろぼろと抜け落ちた。(終)

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残言〜川嶋恒男氏より:

日本人の良さは農耕民族の精神。豊作なら神に拝み、雨がほしければまた神に拝む。そういう謙虚さが大切。農耕して米ができたら分けてあげる。その代わりあなたのところの大根くれ、というようなことでね、部落をつくっていった。狩猟民族なら弱肉強食で場合によっては殺し合いで奪う。東南アジアなんか、全部アメリカ領、オランダ領、イギリス領、フランス領やったでしょう。農耕するなら皆で協力せなあかん。川の水を引くにしても、田んぼに水を入れるにしても、稲を植えるにしても・・・。せやから、やっぱり仲良くするのが日本の国を守る一番の基本やと思う。

 

戦争はいややけども、日本の国を守るためには最低限の自衛力はいると思う。どこかの国に日本が攻められて、自分の家だけ平和で金があって食べ物があって隣の人が死のうが放っておけっていうわけにもいかんでしょう。やっぱり誰かが助けにいかないといかんでしょう。自分からは攻めずとも、他国になめられたらあかん。つけこまれていじめられ続けるようないじめられっ子にはなったらあかん。自分で反撃するぐらいのものは持っておかないと・・・。弱い人間です・・・。

 

 

 

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