Japanese War 2: 「応答願う」〜戦地から孫へ 2

 

 

 

 

 

 

北北西二千四百キロ先に浮かんでいるであろう日本の方角を向き、残存兵十数人が一列に並んだ。相良智英氏は一番端にいた。隣には部隊編成時から仲の良かった同年兵の戦友、長内(仮名)もいた。最期の水、一本の水筒を皆で飲みまわした。小銃の安全装置を外した。靴を脱ぎ、足の親指を引き金に掛けた。脳天をまっすぐ貫くよう、銃口を喉元に当てた。

サイパンやグアムをはじめ観光・新婚旅行でもてはやされるマリアナ海域に浮かぶテニアン島。第一次大戦の敗戦国ドイツから割譲され、一九一四年に日本の委任統治領になっていた。島全体がサトウキビ畑で、精糖規模は台湾に次ぎ、「海の満鉄」とまで呼ばれた。一九四一年には一万五千三百六人の日本人、朝鮮人三十六人、チャモロ族三十六人、カナカ族二人がこの島に住んでいたという。

 

 

米軍の猛烈な砲撃で壊滅しかかっていた一九四四年七月三十一日、「我々は只今より全員自決する」と上官が声を上げた。思い出が走馬灯にようにめぐったのか、めぐらないのか――。「そういう余裕じゃねえんだな、あのときは」と静かに笑う。銃口を自分の喉仏にあて、落ち着かない。それでも「これから自分は死ぬのだ」と言い聞かせた。そのとき、その上官から「相良、さがらっ。司令部にいる少尉も呼んで来い」と指示され、我に返った。米軍戦車に見つからないよう夢中で駆け出し、二百メートル先の司令部壕へ向かった。「早く大きくなってお父さんのかたきを討ってくれ」と、息子の名前を何度も叫ぶ上官の声が背後に消えていった。

司令部では六、七名の将校が階級章を切り取っていた。「今日は皆一等兵なのだ。今から皆で米軍に突撃する。自決を止めさせよ」。急いで元の場所へ戻った。が、遅かった。すでにこと切れていた。

ただ一人、長内だけが死に切れずにいた。右目と耳の間に弾が抜け、「ガボッ、ガボッ」と音を出して出血している。もがき苦しむ友の姿を救う術はなかった。「楽にしてやるぞ。俺も後からいくからな」。そう声を掛けながらこめかみに銃口を当て、一発撃ち放った。

 

 

急いで司令達の後を追い、玉砕攻撃に加わった。サトウキビの合間をほふく前進し、小銃の弾丸五発を撃ち尽くし、米軍戦車に近付こうとしたが、進めなかった。顔がぬるぬるするので、手で頭を探ると指がめり込んだ。頭骨を砕かれていた。海軍第五十六警備隊約千二百名のうち、この最期の玉砕に参加できたのは四百人ほど。日本に生還できたのは相良氏ともう一人の二名だった。

「大体、間違ってたんだわな」。アメリカとは国力、戦力の差がありすぎた、と思い返す。「敵に勝つためには敵を知れ」。米軍はこの言葉を常に口にしていたという。日本軍の暗号を解読し、国情を熟知し、日本の占領計画さえ立案していた。一方、「日本は国民の耳目にふたをし、精神論のみを振りかざして立ち向かった」。我々兵が立派に戦死すれば日本はこの戦争に勝てるという迷信を持ち、玉砕という美名に自分から酔っていた、と評する。「日本兵たるもの捕虜になってはいけない」「生きて帰ってはいけない」と叩き込まれた。与えられた手持ちの武器は小銃と弾百二十五発と手榴弾一発のみ。「弾も『一発は残しておけ』といわれた。自決用として」。弾はすぐに撃ち尽くした。戦えない上に捕虜にもなれない。

 

 

手榴弾一発で一年近い敗残兵生活を続けるしかなかった。食べ物に窮した。かたつむりとサツマイモの葉、ガマガエルで何ヶ月も生き延びた。カタツムリは生ではとても食べられなかったため、米軍車両のヘッドライトを盗み、虫眼鏡の原理で太陽光を集めて火を起こした。頭の傷に湧いたうじ虫さえ食べた。「味もなにもなかった」。

極限だった。洞窟に敗残仲間三人でいるとき、米兵二人が向かってきた。自決用の最後の一発が一人に命中した。血が噴出すのが見えた。「人間の肉は美味いって話だったから、食っちゃいたかった」。だが、周囲にも米兵が警戒しており、洞窟を出れば撃たれる。「食い損ねた」。本気でそんな気持ちにすらなるほどの、飢えだった。

 

 

やがて拡声器を使って米兵やすでに捕虜になった日本軍将校らが「戦争は終わった。殺さないので出てきなさい」「水もタバコもあります」と宣撫するようになった。ゴミ捨て場で拾ったアメリカの雑誌「ライフ」には爆撃される日本の都市の姿が写っていた。それでも、「例え戦争が終わっても、我々軍人は投降できない」。何ヶ月も潜伏生活を続けた。

終戦間近に捕虜にされた。ハワイの真珠湾に連れて行かれたときは、アメリカの女性が詰め寄ってきた。「ジャップ、ジャップ」とののしり、唾を吐き掛け、ハイヒールで蹴ってくる。日本軍にやられた兵士の未亡人だという。テキサスの収容所にはドイツ人も多数いた。真面目に作業するドイツ人たち。「我々ドイツ兵は一所懸命働いて金を貯め、国へ帰って元のドイツにするのだ」と言っていた。作業に出ず、英語を習おうともしなかった日本兵との違いが印象に残る。日本に戻り、亡き戦友の遺族を挨拶に訪ねると、タカリや物乞い扱いされた。

 

 

敗戦、復興、成長を経て経済大国となった現在の日本。「太平洋の防波堤としてわが身を挺した軍人、軍属、民間人の方々。果たして日本はあなた方の望んだ通りになったでしょうか」。相良氏はそう問いかける。

南北二十キロ、東西十キロの小さなテニアン島に逃げ場はなかった。米兵が毎日残存兵掃討のために練り歩く中、仲間は死に絶え、食べ物もなくなった。周囲は海。海岸の岩の割れ目に隠れているとき、水面に大きな海亀が数匹泳いでいるのが見えた。海面に出ては、また潜る。「ああ、亀はいいなあ。亀になれたらいいなあ・・・」。一人、そうつぶやいた。(終)

 

 

残言〜相良智英氏より:

毎朝一番に仏壇にいっぱいの水を捧げるのを日課にしている。自分の先祖と共に、テニアンで亡くなった戦友の平安を祈る。水筒を分け合って飲み集団自決した仲良しの同年兵、見張り中に敵弾を受け最期に「水だけ」とつぶやいた上官、僅かな水を飲むと眠るように息を引き取った戦友・・・。「誰もが最期は『水』であった」。

あの時この水があったなら――。若い人たちよ。出来るなら一杯の水を捧げて欲しい。あなた方の青春は彼らには余りにも眩しすぎるのです。

 

 

Top Page

 

 Photo Reportage

 

  

News

Link

Contact / Comment

 

 

All photos are copyrighted by Yasuhiro Kunimori.